African Column

カカオかもしれない

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【カカオかもしれない】
着陸態勢に入った飛行機から下を覗き込むと、どこまでも続く赤茶けた大地と沢山の小さな家々が見えた。家も道路も全部砂ぼこりにまみれピンク色がかっていて、なんだかかわいくて微笑みたくなってしまう。それでいて、セピア色の写真を見た時のような切なさがかすかに薫るから不思議な気分だ。ガーナの土を踏むのは、一年半ぶりのことである。

写真① ケープコースト城からの夕日 2017.2.19
1回生の終わりごろ、私は大学のサークルの研修でこの国を訪れた。それ以来、「ここで出会ったのも何かのご縁!」という謎の決意とともにずんずん突き進み、とうとう1年間の留学を決めてここに戻ってきたのである。正直に言って、なにがここまで強く私を動かしているのか自分自身でもよくわからない。ガーナに魅了されて好きで好きでしょうがない、というのとは少し違う。留学準備をしていた半年を振り返ってみても、ガーナに行きたくて仕方がない、というよりもなんとかして「行かなくてはならない」状況に自分自身を追い込もうとしていたと言った方がしっくりくる気がする。積極的なのか消極的なのかよくわからない。今のわたしは、ガーナについても自分自身についてもわからないことだらけだ。

写真② ケープコースト城近くの漁村の様子 2017.2.19
私の専門はガーナ地域研究である。地域研究とは、ある地域について様々な方法論を用いて研究する学問の集合体で、人文科学から社会科学、医学、農学までアプローチは人それぞれだ。わたしの専攻はざっくりいうと人類学。少し話がそれるようだが、私のお気に入りの絵本に『りんごかもしれない』(ヨシタケシンスケ著,ブロンズ新社)というものがある。これは小さな男の子が台所に置かれたりんごを見て「りんごかな、いやもしかするとりんごの形をした他の何かかもしれない」と想像力を働かせる話だ。地域研究はこれに似ていると思う。実際の社会における出来事は、そう簡単にカテゴライズしたり白黒つけたり、二項対立的に考えたりできるものではないからだ。1回生のわたしにそのことを教えてくれたのがこの国だった。キリスト教や英語、海沿いに点在する城など、かつての植民地支配を通じてこの地に強制されたものは、伝統と対立する形ではなく、人々の生活のなかに溶け込んで「この国のもの」として存在していた。私にはそれが、とても衝撃的であったのだ。
今のわたしは、ガーナ社会についてほとんど何も知らない。そういう意味ではほとんど赤ちゃんと同じである。私はこれからガーナ社会の常識と慣習に揉まれて「再社会化」される。つまり、ガーナに「もういちど生まれる」のと同じことだ。たぶんわたしは、このためにガーナへ戻ってきたのだと思う。ひとが生まれるところを選べないように、わたしもまた第二の故郷を選べなかった。広い意味ではこれも「選んだ」ということなのかもしれない。けれど、研究のために最適な場所を選ぼうとすれば他にもたくさん候補はあったはずなのに、わたしはそちらには目もくれなかった。見えない糸に引かれるようにガーナを選び、なぜだかわからないけれどこの国と一緒に生きようと決めて、ここまで戻ってきたのだ。ああ、そうか、窓から見えるこの景色がやけに恋しく切ないのは、この世に生まれ落ちる赤ちゃんの気分を思い出しているからなのかもしれない。

写真③ 人懐っこいBonsasso村の子どもたち 2017.2.19
世話好きのこの国の人たちは、これからぐるぐると私を社会の中に取り込んでいくだろう。それに対して、常に「りんごかもしれない」と自分の常識を疑い、そして打ち破ることで応えていきたい。いや、ガーナ風に言えば、「カカオかもしれない」といったところか。

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